コミュ力重視! 若者の“承認欲求”の強さが格差社会に関係しているワケ

こんにちは。エッセイストでソーシャルヘルス・コラムニストの鈴木かつよしです。

独自の若者論・現代日本文化論で注目を集める精神科医の斎藤環さんは、その著書『承認をめぐる病』で、“今のわが国の若者たちは衣食住に象徴されるような物や食などへの基本的な欲求よりも、他者から認められたい」との思いで生きている”という主旨の指摘をし、話題を呼んでいます。

「コミュ力」にしても「スクールカースト」にしても「KY」にしても、若者の価値観が“認められること”にあまりにも偏ってしまっているがために生まれた言葉であるとし、こういった斎藤先生の見方については精神医学に携わる多くの医師たちが「的を射たもの」と評価しています。

「町の精神科医」を自認する都内在住のT先生(50代女性/都内メンタルクリニック院長)もその一人ですが、T先生はさらに『若者の承認欲求が強すぎる傾向は格差社会の副産物だ』と言い、この傾向の悪い面と良い面の両方について自説を展開してくださいました。

今の若者の“認められたい志向”はどうして格差社会の副産物といえるのか。一緒に考えてみましょう。

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生まれ育った家の経済力で地位が買える時代に一発逆転で上位の層に行くには「コミュ力」

斎藤環さんは著書の中で、近年、若者の誰もが他者からの承認を強く願い、承認されているかどうかの評価基準がコミュニケーション能力であること、著書で使われている言葉で言うなら、「場の空気を読む能力」や「笑いを取る能力」などがその象徴であることを指摘しています。

そしてその能力は必ずしも自分の主張を論理的に表現し、相手を説得する能力のような知的で質の高いものではなく、単にその人の“キャラ”づけにとどまる程度のものであると述べています。

ただ、若者がこうなったのは若者だけのせいでしょうか。筆者はそうは思いません。

なぜなら、わたしたち大人の方こそ、若い人たちに「コミュ力」の高さばかりを過剰に求めているところがあるからです。

いい例が、就活です。企業が就活学生を採用する際の判断基準として一番に重視する項目は、専門性の高い理工科系の学生を別にすれば、ここ数年ずっと「コミュニケーション能力」です。

しかも、ほとんどの普通の子はバイトに明け暮れなければ大学に通えないような時代に、先祖代々多額の資産を持っているような経済的に恵まれた家に育った子だけはその親の財力で学力・運動能力・芸術的な能力といったいわゆる“実力”を磨くことが難なくできてしまう。

一般的な庶民の子たちは増々もって「コミュ力」を磨き“マシな部類の正社員サラリーマン”になるしかない。

中学・高校の思春期の学校生活においては、コミュ力を磨いてスクールカーストの上位に行くしかない。

筆者のこのような見方は少々乱暴だろうかと思いきや、都内でメンタルクリニックを開院するT先生がお墨付きをくださいました。

近年の若者の承認欲求の強さは格差社会の副産物である

T先生に、近年の若者の承認欲求の強さは格差社会の副産物であるといえる理由について話を伺いました。

『斎藤環先生は著書の中で、若者に特有な「自分が何者であるか」という“実存の不安”を解消してくれたものは1970年代までは思想や宗教だった。

その後は若者をアイデンティティ・クライシスから救うツールは心理学に取って代わり、今はそれが「その人のキャラ付けに基づいたコミュ力によって評価される承認の度合い」であるという主旨の指摘をされています。

その分析は実に鋭いものですが、斎藤先生の場合はややもするとそういった“強すぎる承認欲求”“コミュ力偏重主義”の悪い面にスポットを当てすぎの面もあると思います。

今のわが国では、富裕層の家に生まれさえすれば、その子どもは大抵のものを手にすることができます。

運動能力も外国語を話す力も医学部に合格する学力も楽器を演奏する能力もコンピュータのプログラミングをする能力も、お金に糸目をつけずに習わせてさえもらえるなら誰だって身につきますし、それによって収入の高い職業に就くことも容易になります。

一方、一般的な庶民の子どもたちはというと、そのような“お金が要る特技や能力”はなかなか身につきません。では、庶民の子がちょっと上に行くにはどうしたらいいか。

コミュ力で“いい会社”に就職するか、笑いを取る力で“お笑い芸人”から“タレント”や“文化人”を目指すか。そういった方法が近道と言えるでしょう。

つまり、近年の若者の承認欲求の強さは格差社会の副産物だと言うことができるのです』

いかがでしょうか。日ごろから中高生や大学生の心の相談に応じている町の精神科医は、若い人たちの承認欲求の強さやコミュ力志向の“良い面”にもしっかりと向き合っているように思えます。

寡黙でもしっかりと認められる人たちがいる

おしまいに。筆者には世間から「社会起業家」と呼ばれているような若い知人が何人かいます。

女性も男性もいますが、その人たちに共通していることは、「育った環境はどちらかというと逆境だった」という点です。

そして彼らは自分の体験に基づいた願いから、子どもたちの未来が親の経済力によって制約されることのないようにと無料の学習塾や無料の食堂を運営し、しっかりと地域社会から「承認」されています。

普段の彼らは“キャラ”とは縁遠い“地味”な人たちで、おもしろいことを言って笑いを取ることもありません。

むしろ“寡黙”な印象を受ける人が多いのですが、ひとたび自分たちがやろうとし、やっている活動を理解してもらい協力を得たいというときには、並々ならぬ情熱と「承認欲求」をもって語りかけて来るのです。

そういうときの彼らのコミュニケーション能力はとても高い。

若い人たちの承認欲求が強いことは、悪いことばかりではないと筆者は思います。

というよりも承認欲求の強さは昔から、機会になかなか恵まれない若い人たちの原動力になってきたのではないでしょうか。

斎藤先生が著書で指摘するような『キャラの相互確認に終始する毛づくろい的コミュニケーション』としてだけでなく、機会に恵まれなかった若者が現状を打破するための質の高いコミュニケーション能力につながるものでさえあれば、“承認をめぐる病”には良い面もあるのではないかと筆者は思うのですが、みなさんはどうお考えになるでしょうか。

【参考文献】
・『承認をめぐる病』斎藤環・著

●ライター/鈴木かつよし(エッセイスト)

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